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〒 890-0054  鹿児島市荒田1丁目29-1
TEL 099-254-3024
 
Email : ttjkk8@hotmail.com 
2021年のみ言葉
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

(ヨハネの福音書16章33節)

最近の福音宣言

2021年8月29日    「カナンの人」    唐川 尊議 牧師     マタイの福音書15章21〜28節

今日の箇所は次の言葉で結ばれています。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」
「立派」と訳された原語は「大きい」という意味の言葉が使われています。イエス様は異邦人であるカナンの女性に「あな
たの信仰は立派です。あなたの信仰は大きい。」と言われたのです。彼女の願いは娘の病気の治癒という誰もがもつ願いで
した。私たちはこれに違和感を抱きます。何故なら、真の信仰は自分の願い通りに神様を動かすことではなく、神の国が来
ること、神様が御心、支配が行われることを祈り、願うことであるはずだからです。では、何故、主は女性の祈りを「立派
です。大きいです。」とほめたのでしょうか。
非行歴のある人たちを受け入れ、教育する北海道家庭学校の谷昌恒第五代校長は「もっと厳しく祈ろう。但し、祈りは息詰
まるほどの苦しさと迷いを生む。」と書いています。祈れば祈るほど、神の御心を尋ねれば尋ねるほど、分からなくなって
しまうというのです。これは本当に祈った人だけが言える言葉であり、大きな信仰に生きたいという思いから生れる言葉で
はないでしょうか。
カナンの女性の祈りは厳しさを増していきますが、イエス様は女性の求めに一言もお応えになりませんでした。弟子たちも
疎ましく思いました。女性の祈りを聞かないのであれば、早く追い返してくださいと願いました。イエス様は弟子たちに言
われました。24節「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」更に、女性
に「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」とも言われました。小犬はユダヤの神を信じない異邦人のこと
です。彼女はそれを聞いても、主イエスに踏みとどまりました。イエス様の足元にひれ伏したのです。そして、「主よ、私
を助けてください。小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と叫んだのです。その思いに主は応えられま
した。主は「あなたが願うとおりになるように。」と約束され、娘は治ったのです。
イエス様がほめられたカナンの女性の信仰の大きさの一つは厳しく、懲りずに祈ったということです。主イエスを圧倒する
ほどの勢いで祈ったのです。そのような祈りから真の信仰、大きな信仰が生まれるのです。私たちも「主よ。その御言葉を
私にもかけてください。私の信仰に『あなたの信仰は大きい。』と声をかけてください。」と祈れるようになりたいと思い
ます。彼女の信仰の大きさは、主イエスを動かすほどの大きさだったということです。この物語は「娘は癒された。」とい
う素晴らしい言葉で終わっています。私たちの祈り、願いはどうでしょうか。私たちはもっと厳しく祈らなければなりませ
ん。このカナンの女性の祈りを引き継ぐ時が来ました。神様は教会の祈りを、そして、私たち一人一人の祈りを聞いておら
れます。用いてくださいます。ご自分を変えることまでされておられます。祈りにおいて、大きな信仰の教会、大きな信仰
者になることはできます。そのような祈りをして、真の信仰を育みたいと思います。




2021年8月22日   「手を洗うのか、洗わないのか」   唐川 尊議 牧師   マタイの福音書15章1〜20節

15章は思いがけない記事で始まっています。わざわざエルサレムからやって来たパリサイ人たちや律法学者たちは、イエ
ス様と弟子たちが食事の前に、手を洗わなかったことを咎めたのです。衛生上の問題ではありません。食事の前に手を洗う
のは、身を聖めてから神の祝福をいただくという意味で大切な律法でした。
この頃、イエス様の名前は人々に知れ渡っていました。神の国のことを教えてきた律法学者たちは自分たちの立場が危うく
なることを恐れ、イエス様を嫉妬し、妬んだのです。それがこの咎めとなったのです。それは憎しみに変わり、主イエスを
十字架につけてしまうことになるのです。
彼らは人々が離れたのは何故かを自らに問い直すべきだったのです。自分の弱さ、間違いを受け入れることは難しいことで
す。しかし、そこに聖霊は豊かに働き、間違いを認め、悔い改める勇気を与えてくださいます。私たちも心したいと思いま
す。
主イエスは彼らの誤りを指摘します。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。」
父と母を敬えという掟は十戒にも定められており、神様が望まれる、大事な掟の一つです。ところが、実際には、この掟を
ないがしろにしていたのです。神への捧げ物は他に転用することは許されないという言い伝えを盾にして、両親の扶養の
義務を放棄する人たちがいたのです。イエス様はイザヤ書を引用して、間違った言い伝えを糾弾しました。「この民は口先
でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。・・・・。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」
律法の番人である律法学者たちがそんな思い違いをしていたのです。人々を裁き、妬みと恨み、やがて、彼らの思いは拭い
去れない憎しみに変わっていきます。それが主イエスを十字架につけてしまうことになるのです。
そもそも、律法や聖書の言葉は人を自由にし、希望と喜びを与えるものです。人倫をないがしろになることはあってはなら
ないことです。大事なことは、父なる神の本質を見失わないことです。そのためには、主イエスに繋がり続けるしかありま
せん。ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。・・・・。わたしを離れては、あなたがた
は何もすることができないのです。」
17節は今日の要点です。「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されるのを分からないのですか。しかし、口
から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」
当時のユダヤ人は汚れた動物を食べると、汚れるとか、病人に触れると、神に近づくことができなくなると信じていました。
しかし、イエス様はそれを完全に否定されたのです。真に汚れているものは食べ物、手ではなく、その人の心だと言われた
のです。
神の言葉は私たちを本質に向け続けさせます。それは生きておられる主イエス・キリストという神の息を感じ続けること、
言葉を聞き続けること、又、学び続けることです。そのことにおいて、互いに祈り合い、良い分かち合いを続けられるよう
に歩んで行きたいと思います。




2021年8月15日    「他に頼るところなし」    唐川 尊議 牧師      イザヤ書2章17〜22節 

終戦記念日です。この戦争で約310万人の日本人の命が失われました。その内の9割の約220万人が1944年以降に
亡くなったと推測されています。改めて、不戦の誓いを新たにしなければなりませんし、速やかに過ちを悔い改めることの
大切さを思わされます。
本日はイザヤ書を開いています。預言者イザヤの時代、イスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダに分裂していました。
イザヤは南王国ユダにおいて、暗闇の中にあった神の民へ将来の希望を語りました。しかし、民はそれに耳を貸しませんで
した。アッシリヤ帝国の習慣にならい、神様が最も忌み嫌われる占いや魔術のようなもので国中を汚していたのです。
彼らはあれにもこれにも神の名を付けることによって、十戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない。」を無視し、アブ
ラハムから始まった唯一の神に仕える誇り、強さ、喜びを失っていたのです。これは大戦前の我が国にも言えることです。
そもそも、神は人間を最高の被造物として造られました。そして、主イエスは人となられ、全ての人に神の存在は明らかに
され、神の愛を示してくださいました。その創造主以外のものを拝むことはあってはならないことです。その理由を整理し
ておきましょう。
1)被造物を崇拝することは創造主への侮辱となるからです。
  主は初めであり、終りだと言われました。全ての起源である方を差し置いて、被造物を拝むということはあってはなら
  ないことです。
2)神以外に信頼を置くことは、私たちが神を知り、伝えることの妨げになるからです。
  造られたものには序列があります。最初に来るのが人です。私たちは神の創造物の全てを管理し、用い、運用する働き
  に召されています。神様と私たちの間に入るものはありません。礼拝は人間が行う最も崇高な行為です。そして、神を
  拝することは礼拝者を霊的に高めます。
3)私たちが自分の努力に頼るようになるからです。
  人は良いものを造れば造るほど、良い働きをすればするほど、我力に対する思い込みが強くなります。それは神様から
  与っている賜物によって、なし得たことに過ぎません。神にお返ししなければなりません。
先の大戦における我が国のアジア周辺諸国への仕業を見ると、私たちは被害者であったと同時に、加害者であったことも忘
れてはならないと思います。滅びは神様を忘れることから始まります。神以外のものを優先し、拝することのないように心
したいと思います。これはイザヤが警告し続けたことでした。22節「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何
の値打ちがあるか。」
本当に価値のあるのは、全身全霊をもって神を信頼し続けることです。このことが問題に真摯に向き合う力と勇気を与えて
くれますし、日本が、そして、私たち一人一人が同じ過ちを犯さないためにも大事なことです。主イエスは平和を愛する者
ではなく、平和をつくる者が幸いであると言われました。そのことにおいて、私たちの務めは小さくありません。平和は
神様を拝することからしか始めることができないことを心に留めたいと思います。




2021年8月8日    「小さな声に聴き入る」    唐川 尊議 牧師    サムエル記第一3章1~21節

1節「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」
主の御怒りを買ったのです。祭司エリの息子たちが神様を軽んじ、祭司職を汚していたからです。そして、エリも息子たち
を悔い改めに導くことができなかったからです。イスラエルの危機です。
サムエルはエリのもとで主に仕えていました。主は眠っているサムエルに三度、現れました。しかし、主を知らなかった
サムエルはエリと勘違いしました。純真な少年サムエルを見る思いがします。エリの助言に従って、四度目に主の御言葉を
聴くことができました。主は彼を預言者として召し出します。その召命は少年への温かい呼びかけで始まりますが、語られ
た内容は過酷なものでした。ここまで自分を養い育ててくれた恩師エリへの裁きの宣告であったからです。14節「エリの
家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」
現在、そのような形で御言葉、御心を聴くということはないかも知れません。聖書によって御言葉、御心が私たちに示され
ているからです。
エリの家は代々祭司の職を担ってきました。又、自身は祭司長の職にあり、人望もあったでしょう。そのエリの家の働きを
剥奪すると告げられたのです。サムエルはこれをそのままエリに伝えることを恐れました。しかし、主の言葉を包み隠さず、
伝えて欲しいというエリの要請に応えて、人間的な思いを捨てて、神の言葉を隠すことなく語りました。この厳しい経験を
通して、サムエルは神様の言葉を伝える預言者としての一歩を踏み出したことになります。
エリは主の前に頭を垂れ、手心を加えて欲しいとも言わず、罪の弁明もしていません。自分に責任を問う方こそ、自分が信
じてきた真の神であると告白したのです。これは本当に悔い改めた人、主の前に砕かれた人に起る神の御業です。真の悔い
改めは自身に平安を与え、他者との間に和解をもたらします。間違いを他者に転嫁しません。人が変わることを求めず、
自分が変わります。自分で責任を負います。これをさせてくださるのは神様です。この祝福は神に徹底して仕える人だけが
受けることができます。ピリピ人への手紙4章13節「私は私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる
のです。」
この後、主は御心をサムエルに語られました。そして、それは全て実現していきました。20節「全イスラエルは、ダンか
らベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。」
危機的な状況にあったイスラエルに新たに御言葉を取り次ぐ預言者、祭司が与えられました。御言葉を聴いて、人々を導い
ていく、サムエルが背負う責務は軽くはありませんが、神と人を繋ぐ大事な働きです。この選びは絶対です。最も崇高な働
きの一つです。
最後に一つ触れておきたいことがあります。この神様の選びはサムエルに限ったことではないということです。私たち一人
一人にも預言者と祭司の務めが託されています。万人祭司です。周囲の人たちに神の言葉を伝え、神の国に招き続けていき
ましょう。




2021年8月1日    「神を尊ぶ人とは・・・・」   唐川 尊議 牧師    サムエル記2章27〜36節

ハンナの誓願によって授かったサムエルは神様と人に愛されながら、成長していきました。主にある成長こそ、ハンナが
望んでいたことでした。その一方で、少年サムエルを指導してきた祭司エリとその息子たちは祝福を取り除かれることに
なりました。息子たちが神を恐れず、祭司の職を軽んじたからです。
27節「神の人がエリのところに来て、彼に言った。」「神の人」とはモーセ、エリヤ、ダビデ、新約ではテモテに使われ、
預言者、説教者を表します。四つの神の言葉を預言しています。
1)こ自分はイスラエルをエジプトの奴隷生活から助け出した真の神である。
2)エリの家系に与えた祭司職は多くの祝福があるけれど、果たすべき責任もある。
3)息子たちはいけにを杜撰に扱い、私腹をこやすという祭司としてあるまじき行為を行った。更に、エリはそれを厳しく
  戒めなかった。
4)それ故に、エリとエリの家には裁きが下される。
これは30節「わたしは、わたしを重んじる者を重んじ、わたしを蔑む者は軽んじる。」という主の御心が成就するためで
した。そして、これから起こる出来事の全ては神のご計画によって進められることを強く知らせるためでした。
この裁きはエリの家だけの問題ではありませんでした。祭司の家は神と神の民を繋ぐ重要な役割を担っていましたので、
国全体の問題でもあったのです。
エリの家に対する神の恐ろしい裁きが記されています。モーセの時代から続いてきた歴史ある祭司の家が途絶えてしまうの
です。そして、息子二人が取られてしまうのです。これは祭司として受け入れることができても、親の立場としては受け
入れ難いことだったでしょう。悔恨と絶望がエリを支配したと思われます。
主なる神は生きておられ、私たちに祝福を与えられることを何よりも喜びとされますが、御心に適わないことは厳しく裁か
れます。それだけではありません。祭司エリに将来の約束もして、次に繋がるための憐れみも用意してくださいました。
35節「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよ
う。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。」
エリは祭司として、自分の息子たちを教育することには失敗しましたが、200年もの間、祭司としての務めを果たして
きた家の出身です。それなりの責任と誇りは失っていませんでした。エリはサムエルの祭司教育を任されたことに主の哀れ
みを感じたに違いありません。エリは主の裁きを受け入れていきます。イスラエルの国自体の衰退を受け入れることができ
なかったからでしょう。これはエリだけではなく、神の言葉を聞こうとする私たちにも与えられている希望です。
ある人が言いました。「神を尊ぶとは、必ずしも、神のために偉大なことを成し遂げるということではない。全ての選択
を神の判断に任せたり、全ての価値基準を神に置いたり、日常のあらゆる出来事を神の御名をあがめるために役立てよう
とする心をもち続けることだ。」
私たちもこのことを心に留めて、歩んでいきたいと思います。




2021年7月25日   「誰かの支えになって」   節政 玲子姉     使徒の働き2章41〜47節

「明日につなぐ会」という集いを始めました。私がこの会を始めることになったのは、森山諭牧師との出会いにあります。
そのことについてお話します。
私は大学一年の時、鹿児島市の繁華街天文館で、ある女性から「聖書を学びませんか。」と声をかけられ、誘われるままに
勉強会に参加しました。後で、分かったことですが、それは異端の教会でした。そのことが鹿屋キリスト教会のマーク・
ジー・マクセイ先生に伝わり、母に接触を止めるように強要されました。しかし、頑なに拒否する私を見て、専門家の力が
必要だと考えたのでしょう。荻窪栄光教会の森山諭牧師を紹介され、連れて行かれました。私は先生の話も拒み続けました。
2~3週間、監禁されるような状態が続き、疲れ果てた頃、森山先生から「あなたはイエス様をどの様に思っていますか。」
と聞かれました。この異端の教会ではイエス様が救いを完成させるために教祖を立てたと教えられていますので、私は
「イエス様を信じます。」と応えました。すると、「洗礼を受けなさい。」と言われ、、鹿児島キリストの教会で洗礼を受
けました。当時、兄と一緒に暮らしていましたので、表立って、異端の教会の活動に参加することはできませんでしたが、
誘ってくれた女性との接触は続いていました。
大学を卒業して、教職に就きました。しかし、1年で挫折して、退職してしまいました。そして、異端の教会に戻りたいと
思いました。そんな時、事故で大怪我をして入院しました。母が私の家の書棚を見て、異端教会から抜け切れていないと
思ったのでしょう。大騒動になりました。私は40日間、40分、イエス様の名でお祈りしようと決め、実行しました。
しかし、栄光教会に連れ戻される車の中で、あんなに祈ったのに、駄目だということはイエス様が道を示してくださって
いるのではないかという思いになりました。今でも、その時の車窓から見た景色は忘れることができません。そして、森山
先生の話を素直に聞こうという気持ちになりました。森山先生は真摯に対応してくださいました。そんな時、栄光教会の
教会員に言われました。「先生は日本全国から来るあなたのような人の対応に追われ、教会活動に支障が生じています。」
「道を正された人は地元の教会に戻るので、栄光教会には何の益もありません。」「中には、キリスト教を棄てる人も
います。」それを聞いた時、「私は森山先生に救われたのだ。」と気付かされました。1996年、先生は天に召されまし
た。先生と関わったのは2カ月足らずでしたが、私はこの世的には無駄だと思われることにひたすら取り組まれた先生の姿
にイエス様の十字架を見ています。そして、森山先生が一生をかけて、信じたイエス様の死を生かしていかなければならな
いと思わされています。それが今の私の歩みの支えとなっています。天国で森山先生に会ったら、「私なりに頑張って来ま
した。」と言えるようになりたいと思っています。そのために、悩んでいる人たち、困っている人たちに手を差し伸べたい
という思いで「明日につなぐ会」を始めました。




2021年7月18日    「父としてしなければならないこと」   唐川 尊議 牧師
                                       サムエル記第一2章11〜26節

神様がハンナの胎を開き、与えられたサムエルは成長し、ハンナの誓願通り、主に捧げられ、祭司エリのもとで主に仕えて
います。シロで礼拝を終えたエルカナはラマの家に帰りますが、幼子サムエルは残りました。信仰によって決断したハンナ
には満たされた思いがあったでしょうが、母親として幼子を置いて行くことに不安もあったでしょう。しかし、この信仰の
決断は当のハンナはもちろん、夫エルカナ、一族、そして、イスラエル国全体の祝福に繋がっていったのです。一粒の種が
地に落ちて、死ねば、豊かな実を結びます。
一方では、神の祝福が取り除かれていく祭司エリの息子たちのことが記されています。
礼拝者が捧げた犠牲の捧げ物の一部は祭司の取り分となり、捧げた人も食べることができました。エリの息子たちはこれを
悪用して、肉の良い部分を先取りしていたのです。神様と人との仲介者である祭司が大事な礼拝を汚し、礼拝に来た人々を
つまづかせていたのです。
農耕生活が中心の当時のイスラエルの人々にとって、罪の贖いのための動物を用意することは経済的に容易なことではあり
ませんでした。神様が人々にそれを求めたのは、大変な思いをして捧げることによって、罪の重さを身と心に刻んで欲しい
からでした。それでも、捧げた後、礼拝者が捧げたものを口にすることができたのは主の憐れみでした。この神様の思いを
踏みにじるエリの息子たちの行為は貪欲と言わざるを得ません。又、彼らにはその他にも宮における性的不道徳行為があっ
たようです。祭司として、自分の子供たちが主にどう向き合っているかを把握できていなかったエリの責任は小さくありま
せん。エリは父親として、祭司として、息子たちを諫めました。イスラエルでは家庭内の父親の権威は絶対です。
イエス様が放蕩息子のたとえをされた時、聴衆は非常に驚きました。父親が生きているのに、息子が財産をせしめて、出て
行くなどあり得ないことだったからです。
25節「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだった。」
彼らの頑なな態度に神の憐れみも届かなかったようです。エリの息子たちは祭司としてはもちろん、個人としても、神の心
を無視したことになります。それを正すことができなかった父親エリも厳しい最後を迎えていくことになります。又、腐敗
は他の祭司にも及んでいきます。
エリの家はアロンから始まった、神の働きをする由緒ある家系です。神様の厳しさと悔い改めの大切さを思わされます。
一方、26節「少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」
この後、神様はサムエルを選ばれ、神の器として用いていかれます。
私たちも親として、日々の生活の中で、不安、問題を経験することがあるでしょう。たとえ、周りの環境、良い指導者に恵
まれなかったとしても、主はご自身が選んだ人に関わり、導いていかれます。見えないところにも神の御手は及んでいきま
す。神様は良いお方であることを忘れず、なすべきことをしっかりと守り、新しい一週間も歩んでいきたいと思います。




2021年7月11日    「その祈りは個人を超えて」   唐川 尊議 牧師    サムエル記第一2章1〜11節

跡継ぎができないことで苦しみ続けたハンナは激しく泣き、神様に思いの全てをぶつけました。そして、子が与えられるなら、
その子を主に捧げますと祈りました。彼女の心には、結果の如何に関わらず、神のご計画にお任せしたいという思いが生じて
いたようです。多くの場合、私たちは結果だけで神様の祝福、恵みを判断しようとします。心したいと思います。
結果的に、ハンナはサムエルを授かりました。彼女は全ての悲嘆を受け留めてくださる方がいることをどん底の状態で改めて
知ったと思われます。ハンナの苦しみは神様に行き着くための必要、試練だったのです。
エレミヤ書29章11節「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。―主のことば―。それはわざ
わいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
サムエルの誕生はハンナと夫エルカナ、そして、その一族に対する祝福だけではありませんでした。イスラエル国家全体に対
する祝福として捉えることができます。サムエルによって、最初の王、サウロが立てられ、そして、ダビデ王に繋がり、イス
ラエルの繁栄と導かれるのです。
そもそも、聖書66巻のテーマはキリストによる神の新しい創造です。ですから、聖書は遠い昔の、遠い異国の話ではありま
せん。私たちもその恵みに与ることができるし、与っているのです。
2章はハンナの歌で始まっています。詩篇の記述スタイルを見ることができます。ほとんどの文が対になっています。
又、比喩が沢山使われています。そして、彼女が到達した思いがよく表れています。中でも、際立っているのは2節です。
二つのことがまとめられています。
1)神は聖なる方です。
  畏敬、尊厳、信仰の対象です。
2)神は並ぶもののない方です。
  イスラエルは弱小国でしたが、ダビデに注がれた神の恵みによって、次第に力をつけ、強国になっていきます。民もその
  ことを多いに実感し、神に感謝しました。しかし、後にはそのことを忘れて、他の神々にも仕えるようになっていきます。
  それでも、神様はイスラエルを諦めずに、神の民として守り、導き、整え、裁きを与え、悔い改めを求めながら、子孫
  繁栄の最初の祝福の契約を頑なに通そうとしてくださっています。私たちはそういう父なる神の愛を理解しているでしょ
  うか。2節「私たちの神のような岩はありません。」私たちは偶像の誘惑に打ち勝つために、これを繰り返し告白しなけ
  ればなりません。全150編の詩篇も神様の御業を讃えて、忘れないことを私たちに求めています。詩篇1編2節「主の
  おしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。」
  神様が約束を守り、変ることがない方であることが頭では分かっていても、直ぐに忘れてしまうのが私たちです。
ハンナの賛歌は彼女の個人的神賛歌に留まらず、イスラエル全体に及ぶ神賛歌です。それは、この後、サムエルが神の器とし
て立てられることによって、より明確に示されていきます。そのことを覚えながら、引き続き、皆さんとサムエル記に聞いて
いきたいと思います。




2021年7月4日    「確かにあなたは」   唐川 尊議 牧師    マタイの福音書14章22~33節

前節で、イエス様は五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人を養われました。人々はイエス様に熱狂しました。イエス様
は静まる時を作るために、弟子たちを舟に乗せ、対岸に向かわせました。そして、ご自身は祈るために山に登られました。
ところが、向かい風で舟が前進できなくなったのです。その様子をご覧になったイエス様は湖の上を歩いて、舟に近づいて
来られました。それを見た弟子たちは幽霊と思ったようです。怯える弟子たちにイエス様は話しかけられます。「しっかり
しなさい。わたしだ。恐れることはない。イエス様の言葉を聞いた弟子たちは冷静さを取り戻しました。すると、ペテロは
自分も水の上を歩いて、イエス様の側に行きたいと申し出ます。この行動については批判的な見方が多いですが、次のよう
に考えることはできないでしょうか。
1)イエス様が勧める「求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば与えられます。」を積極的に実践したと捉える
  ことができます。
2)ペテロが常に求めていたのは、何時も、イエス様の側にいることでした。イエス様と共に歩むことでした。
確かに、ペテロは多くの失敗をしました。その度に、イエス様から注意され、他の弟子たちの失笑を買っていました。
しかし、彼らはペテロを通して大事なことを学んでいたのです。イエス様はそのことを承知の上で、ペテロに接していたと
思われます。
かつて、作家の三浦綾子さんが「聖書ほど人間の真実を語る書物はない。」と言いました。聖書は全てをさらけ出していま
す。だから、聖書には真実があるのです。誰でも自分の悪い所を隠したいものです。しかし、神の前には全てが明らかです。
それは私の存在を、皆さんの存在を否定するためではなく、愛をもって、あるがままを受け入れるためです。そこに神様の
恵みがあります。だから、神を信頼する人は本当の心の平安を得ることができるのです。
水の上を歩み出したペテロは強風を見て、水の上を歩いているのが怖くなり、沈み始めました。そして、イエス様に助けを
求めています。イエス様は「何故、疑ったのか。」とたしなめています。イエス様以外のものが目に入る時、疑い、恐れは
やって来るのです。現実に心を奪われるのです。
私は25年前に、ある夏のバイブル・キャンプで、一人の宣教師に出会いました。それがきっかけで神学校に行き、牧師に
なる決心をしました。しかし、神学校への入学願書を提出するまでの間、多くの葛藤がありました。それを乗り越えること
ができたのは、もう一度、神様を見上げ、「わたしに従いなさい。」と言われたイエス様の言葉を聞き直したからです。
私たちの日常生活には多くの試練、葛藤、困難があります。私たちはつまずいてもよいのです。倒れても大丈夫です。沈ん
でも構わないのです。大切なことは、恐れず、新しい一歩を踏み出し続けることです。直ぐに応えてくださるイエス様が側
に立っておられます。イエス様にある失敗は全てが恵みに変えられます。このことを信頼しながら、一日一日をイエス様と
共に歩んでいきたいと思います。




2021年6月27日   「この子のために私は・・・・」    唐川 尊議 牧師  サムエル記第一1章18~28節

ハンナは夫エルカナの一心の愛を受けて、幸福の只中にありましたが、跡継ぎが与えられていないという一点において、不幸
のドン底にありました。古代社会では跡継ぎの有無は重要な問題です。その苦しみ、悲しみが頂点に達した時、ハンナは自分
の全てを神様の前に注ぎ出して、祈ったのです。ある人はこれを裸の祈りと言いました。神の御前で自分のありのままをさら
け出す祈りという意味です。そもそも、神様に何事も隠すことはできません。それは私たちが積極的に間違いを認め、悔い
改めて、平安と安心をもち続けることができるようにするためです。恵み以外の何ものでもありません。ヨハネの福音書3章
17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
19節で、ハンナが家族と捧げた礼拝は神様が如何なる方であるかを知った喜びにあふれています。内にある全てを出し切り、
訴えた彼女の顔は以前の暗い、悩み、悲しみ、怒りを抱えた顔ではありませんでした。
この後、主はハンナに心を留め、彼女に跡継ぎとなる男子を与えてくださいました。自分に対して、夫に対して、家族に対し
て、そして、神様に対して、長い葛藤を続けてきた末に、授かった待望の子供でした。実に、ハンナの涙なくしては、偉大な
預言者、士師サムエルは生まれなかったのです。エルカナ、ハンナ、そして、一族を真に神に生きる人たちに変えるきっかけ
を作ったサムエルという名は「神、聞きたもう。神の名」という意味です。
悲しみが長く、深く続いただけに、ハンナには子供は親の所有物という意識はありませんでした。自分の子供を神様に捧げる
というハンナの誓願は子供の自主性を尊重していないと考える人がいるかも知れません。しかし、子供は神のもとにあること
が最善であるとハンナは信じたのです。最近、妊活という言葉を耳にしますが、併せて、親として考えさせられることです。
今、彼女には二つの平安がありました。一つは跡継ぎが与えられたという平安です。もう一つは、その子を神に捧げる決心に
よる平安です。自分を苦しめてきたペニンナの前で誇るようなことをしていません。この二つの平安は彼女に明らかな霊的な
変化があったことを示しています。つまり、これさえあればという信仰から、それがなくともという信仰に変わったのです。
元々、ハンナ、エルカナには神への信頼がありました。その信頼が真の信頼に変えられたのです。一人一人の信仰においても、
問われているのは、あなたの信仰は真に神を信頼しているか、それとも、ただ信頼しているだけかです。別の言い方をすれば、
称えられるべき方、讃美されるべき方に信頼し切っているか、委ね切っているかということでしょう。
ハンナの忍耐、全てを捧げた祈り、そして、御心を示された後のエルカナの真の従順、真の信仰は何れも特筆すべきものです。
模範にしたいと思います。全てを導いておられる方こそ、礼拝を受けるに相応しい方です。その方を真中にして、引き続き、
サムエル記から神様の御心を聞いていきます。